ヨーロッパの布地図 — 気候と共同体が織り継いだ、六つの伝統
タータンチェック、ハリスツイード、アイリッシュ・リネン。この三つは、ヨーロッパの布を語るときにまず名前が挙がる定番です。けれど布の地図をもう少し広げてみると、フランスの物語る更紗や、オーストリアの山岳民の作業着、スイスの繊細なレースなど、それぞれの土地の気候・産業・宮廷文化が織り込まれた布がまだまだ見つかります。今日は、大英諸島からアルプスの谷まで、六つの布をめぐる小さな旅へ。
大英諸島 — 気候と共同体が育てた織物
スコットランドとアイルランドの布には、共同体の記憶が刻まれています。羊毛や麻という土地の恵みを、家族や小作農たちが手を動かして布に変えてきた歴史です。
タータンチェック(スコットランド)
各ハイランド・クランや地域を象徴する格子の織物、タータン。1746年のカロデンの戦いのあと、ハイランド衣装は一時禁止されましたが、1815年頃からクランごとの正式なタータンが命名・登録されるようになりました。現在は「スコットランド・タータン登録簿」が公式なデータベースとして機能し、1万点以上のデザインが記録されています。クラン由来のものだけでなく、地域や企業、さらには各国の団体のためのタータンまで、今も新しいデザインが生まれ続けている「生きた伝統」です。
“The Register will make tartan more accessible than ever before.”
「この登録簿によって、タータンはこれまで以上に身近な存在になるでしょう。」
ハリスツイード(スコットランド/外ヘブリディーズ諸島)
ヴァージンウールを使い、島民の自宅で手織りされる伝統のツイード。1840年代、ダンモア伯爵夫人がこの島の布に可能性を見出し、ロンドンの社交界に紹介したことが世界的な評価の始まりだったといわれます。人気が高まるにつれ模造品も出回るようになったため、1909年に「オーブ(球体)」の証明マークが登録され、現在は1993年制定の「ハリスツイード法」という英国議会法によって、外ヘブリディーズ諸島で紡ぎ・染色・製織のすべてが行われた布だけがこのマークを名乗ることを許されています。世界でも珍しい、法律で守られた布のひとつです。
“has been woven with skill and care by crofters in their own homes”
「何世代にもわたり、島の小作農たちが自宅で、腕と心を込めて織り上げてきました。」
アイリッシュ・リネン(アイルランド)
亜麻から作られる、しなやかな光沢が魅力の高級麻織物。産業として大きく花開いたのは17世紀、フランスから逃れてきたユグノー(プロテスタント)の織り手たちが高度な技術を持ち込んだことがきっかけでした。1711年に設立された「リネン委員会(Linen Board)」は、種の検査から仕上がりの検品まで細かな品質管理を行い、ベルファストは「リネノポリス」の異名を取るほどの産地になりました。現在はアイルランド国内で亜麻が栽培されることはほとんどなく、フランスやベルギーから原料を仕入れていますが、織りの技術と品質基準は今も受け継がれています。
“Irish Linen was held rigorously to a high standard”
「アイリッシュ・リネンは、厳格な基準のもとで品質が管理されてきました。」
フランス — 物語る更紗、トワル・ド・ジュイ
「トワル・ド・ジュイ」は、パリ近郊の小さな町ジュイ゠アン゠ジョザで生まれた単色プリントの綿布です。実は起源はアイルランドの更紗にありましたが、1760年にドイツ出身の実業家クリストフ゠フィリップ・オーベルカンフがこの町に工房を構え、藍や赤の単色で牧歌的な情景を描いた図案が一世を風靡しました。当時フランスは輸入更紗を国内産業保護のために禁じていましたが、1759年に禁令が解かれると同時にこの布が花開いたのです。田園の恋人たち、収穫の光景、時にはギリシャ神話やイソップ寓話まで――3万種以上あったといわれる図案は、まるで「布の上の物語」でした。マリー・アントワネットやルイ16世の時代に流行し、後年はディオールなどのメゾンにも受け継がれています。
“Pastoral romantic is the genre everyone thinks of.”
「牧歌的なロマンス――誰もがまず思い浮かべるのは、そのイメージです。」
アルプスの谷から — 実用と繊細、ふたつの美学
オーストリアとスイス、アルプスを挟んだ隣国からは、まったく対照的な二つの布が生まれました。ひとつは山の暮らしを守った頑丈なウール、もうひとつは糸を数える繊細なレースです。
ローデン(オーストリア・チロル地方)
「ローデン」は、山岳地帯の羊の粗い毛を厚く織り、水や湿気を通しにくくするまで縮絨(フェルト化)させたウール地。もともとは16世紀ごろから農民や猟師の作業着として使われてきた、いわば「最初の機能素材」でした。転機は19世紀、フランツ2世の弟であるヨハン大公がチロルに赴任してこの土地の暮らしに魅せられ、宮廷にローデン文化を持ち帰ったことから始まります。狩猟好きの皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が愛用したことでさらに格が上がり、農民の作業着だった布が貴族のカントリーウェアへと姿を変えていきました。現在の深緑色のローデンコートは、その名残です。
“Austrian royalty started a fashion for country wear made of Loden”
「オーストリア王室が、ローデン地で仕立てたカントリーウェアを流行させたのです。」
サンクトガレン刺繍・レース(スイス)
スイス東部の都市サンクトガレンは、中世から続く亜麻布と刺繍の産地。19世紀に刺繍機が発明されると生産量は一気に拡大し、1910年頃には世界の機械刺繍の中心地となりました。手作業のレースを精巧に模した「ケミカルレース(薬品レース)」はパリのオートクチュール・メゾンから熱狂的に求められ、ディオールやシャネルといった名だたるブランドが今もこの布を使い続けています。第一次世界大戦や世界恐慌で一時は苦境に立たされましたが、800年におよぶ技術の蓄積は失われることなく、現代のクチュールを陰で支え続けています。
“first learned about drum embroidery from a Turkish lady at the textiles market”
「サンクトガレンの人々は、リヨンの織物市場でトルコ人女性から刺繍の技法を学んだと伝えられています。」
布は、土地の記憶を運ぶ
スコットランドの氏族の誇り、外ヘブリディーズ諸島の小作農の手仕事、アイルランドの職人集団、フランス宮廷の物語る更紗、チロルの山の実用着、サンクトガレンの精緻なレース。六つの布はそれぞれ違う土地の気候や産業、時には政治の歴史まで背負っています。同じヨーロッパでも、布ひとつでこれほど異なる物語が生まれるのだと思うと、生地を選ぶ時間もまた少し違って見えてくるかもしれません。
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