日本に編み物がやってきたのはいつ?

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同じ図があれば誰でも同じものが編める。そんな共通の言葉が整うまでに三百年以上かかりました。

日本に編み物がやってきたのはいつ? 南蛮貿易の靴下から、明治の教室まで

編み物は、いつ日本にやってきたのでしょうか。「江戸時代のはじめごろ」と説明されることが多いのですが、資料をひとつずつたどってみると少し違う景色が見えてきます。靴下が海を渡ってきた「伝来」、武士たちの手仕事として広がった「普及」、そして教室や家庭の手芸になっていく「定着」。この三つの段階に分けて、日本の編み物の歩みを見ていきます。


編み物は、もともと日本になかった技術

日本には、縄文時代から網を編む技術がありました。けれど、糸で小さな輪(ループ)をつくり、それを次々とつないで、伸び縮みする布にしていく「編み物」は、また別の技術です。日本大百科全書でも、編物は糸状の素材をループ状にして連ねていくことと説明されています。

日本の衣類は長いあいだ織物が中心で、ニット(編み物)が入ってきたのはずいぶん遅かったと指摘する解説もあります。毛糸の手編みは、研究の世界でも「日本にはもともとなかった技術」として扱われています。つまり編み物は、海の向こうから来た手仕事でした。では、最初にやってきたのは何だったのでしょうか。

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南蛮貿易とともに来た「メリヤス」

答えは、靴下と手袋です。戦国時代の終わりから江戸時代のはじめにかけて、ポルトガル人やスペイン人との南蛮貿易の中で、手編みの靴下や手袋が日本に持ち込まれました。伝来の時期について、靴下メーカーのナイガイは、永禄10年(1567年)から寛永12年(1635年)のあいだというのが定説だと紹介しています。ほかに1592年ごろ、1600年前後とする解説もあり、資料によって幅があります。

「メリヤス」は、もともと靴下のこと

「メリヤス」の語源は、ポルトガル語の meias、あるいはスペイン語の medias といわれています。どちらも「靴下」を意味する言葉です。つまりメリヤスとは、もとは靴下そのものの名前でした。17世紀後半の俳諧などにも「メリヤス足袋」という言葉が登場するので、そのころには、この舶来の靴下が日本語の中に入り込んでいたことがわかります。

(要約)16〜17世紀、キリスト教の伝来とともにスペインからメリヤス編みの手法が渡ってきた。元禄年間(1688〜1704年)には長崎でメリヤスの製造が行われた、と解説されている。


— 日本大百科全書(ニッポニカ)「編物」

水戸光圀の「メリヤス足袋」

日本で見つかっている最古のメリヤスの靴下として紹介されることが多いのが、水戸藩二代藩主・徳川光圀(1628〜1701年)の遺品とされる「メリヤス足袋」です。ナイガイの所蔵品紹介によると、絹製が3足、綿製が4足の合わせて7足。いずれも地模様の入った長靴下で、後ろ側に縫い目のない丸編みです。絹製はウグイス色、ベージュ、茶色の3色、綿製は無晒しでパール編みの柄とのこと。

おもしろいのは、その作り方がはっきりしないことです。当時の編機の能力からすると機械編みとは考えにくく、かといって編み目の均一さを見ると手編みとも言い切れない、と同じ資料に書かれています。外国の品が贈り物として喜ばれた時代なので、献上品だったのかもしれない、という見方も添えられていました。この靴下は、水戸徳川家ゆかりの品を所蔵する徳川ミュージアムのコレクションにも、「メリヤス足袋」として挙げられています。

江戸のはじめ、編み物は「自分たちで編む手仕事」ではなく、「海の向こうから届いた、めずらしい舶来品」だったのです。

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江戸の武士たちの手仕事

手編みが日本の中で「つくる側」の仕事になっていくのは、江戸時代の後半です。文化・文政のころ(1804〜1830年)、江戸では、浪人や禄の少ない武士たちが、内職として手編みをするようになったと伝えられています。細い鉄の棒を編み針にして、靴下のほか、刀の柄袋や鍔袋、印籠下げ、手袋などを編んだそうです。できあがった品は、神田のあたりの糸屋や足袋屋が扱ったといいます。

武士が針仕事をする、というのは少し意外な光景ですが、家計を支えるための内職だったという背景があります。刀にまつわる小物まで編んでいたことから、編み物が武家の暮らしの道具づくりに溶け込んでいた様子がうかがえます。

(要約)文化・文政期(1804〜1830年)には、手編みは江戸の浪人や小禄の武士のあいだで内職として広く行われるようになった。編み針には細い鉄の棒を使い、靴下のほか、刀の柄袋、鍔袋、印籠下げ、手袋などに応用が広がった。


— メリヤスの起源・歴史について(slouch)

ひとことコラム 「江戸時代初期に広まった」とは言いきれない理由
「日本で編み物が広まったのは江戸時代の初期」と説明されることがあります。ただ、今回参照した資料を並べると、伝来は南蛮貿易の時代(16世紀後半〜17世紀前半)、手編みが内職として広く行われたのは文化・文政期(19世紀のはじめ)と整理されていました。江戸時代のはじめはまだ舶来の靴下を珍重する段階で、国内で編み手が増えるのは、二百年近く後のことになります。

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明治時代:機械の道と、教室の道

明治時代に入ると、編み物は二つの道に分かれて進んでいきます。ひとつは工場の機械編み、もうひとつは学校や家庭での手編みです。

先に走ったのは、機械編み

機械編みのきっかけとして語られるのが、旧佐倉藩士の西村勝三です。明治3年(1870年)に横浜の外国商館で小さな丸編み機を目にし、付いていたカタログを翻訳して、はじめてそれがメリヤスの機械だと知った、と伝えられています。工業としての靴下づくりは、明治4年(1871年)に西村が東京・築地で軍足の製造を始めたことが出発点とされ(資料によって年に一、二年の差があります)、翌年には大阪の中之島でも靴下編機を使ったメリヤス業がはじまりました。

明治8年(1875年)には、機械編みの靴下がはじめて清(中国)へ輸出されるまでになり、日清・日露戦争では軍需品として大量のメリヤス製品が求められて、産業は急速に育っていきました。

文部省の本に載った編み物

手編みのほうの出発点として注目したいのが、明治9年(1876年)と翌10年に文部省から刊行された『童女筌(どうじょせん)』です。遊びや手芸、学問を幅広く集めた翻訳書で、序文から、欧米の女子向けの本を訳したものとみられています。かぎ針編み、パッチワーク、タッティングレース、刺繍など、さまざまな手芸が紹介されていて、棒針編みは「編製」という訳語で、作り目は「カスチング」と英語の音をそのまま写して書かれていました。

(要約)『童女筌』には、棒針編みの道具や作り目、減らし目の方法のほか、表編みや裏編みを表す英文パターンの略語(K、Pなど)の表まで載っていた。ただし、一つひとつの解説はかなり簡潔で、この本だけで編み方を教えられたのかは分からない、と紹介されている。


— たた&たた夫の編み物入門「童女筌の世界」

同じページでは、この時代の日本人にとって羊毛は高価な素材で、本が絶賛するシェットランドウールの毛糸が、子どもの手芸に使われるようになるまでには、さらに長い年月がかかったとも指摘されています。

宣教師と、鹿鳴館のレース

学校の現場では、外国人の女性宣教師たちも編み物を伝えました。たとえば、1880年(明治13年)から2年間、同志社女学校で英語や英文学、体操とともに編み物を教えたとされるH.F.パーミリー。遺品には、編みかけのレースやボビン、小さなはさみが残っています。「日本でレース編みを最初に教えたのは、この先生ではないか」とも言われますが、遺品が同志社女学校で使われたものかどうかは、はっきりしていません(日本家政学会のコラムより)。

欧風の文化がもてはやされた鹿鳴館の時代には、レース編みも入ってきました。上流社会では、レースのジャケットや肩掛けが流行したと日本大百科全書に記されています。

はじまりは、小さなものから

では、明治の人びとは何を編んでいたのでしょうか。日本家政学会誌(2012年)に載った研究では、明治期の編物書2冊に掲載された作品の75パーセントが小物類で、ウェア類は6パーセントほどでした。靴下や肩掛けのような、身につける小さなものが中心だったのです。ウェアへと広がり、道具や毛糸の種類が増えていくのは、大正にかけてのことだと整理されています(日本家政学会誌 Vol.63 No.5)。

羊の国内飼育も、明治2年に北米から8頭が買い入れられ、明治8年に千葉で官設牧場が開かれたところからの出発でした。家庭でセーターを編むという今のイメージにつながる景色は、明治よりも、もう少し後の時代のものです。

ひとことコラム レースを輸出していた時代
明治から大正にかけて、日本人が手編みしたレースは、海外へ輸出されてもいました。昭和29年刊の『レース編独習書』には、明治45年前後に鈎針編みレースの輸出がさかんになり、小田原に輸出レースの研究所ができたという回想が載っています。編み物は、趣味や内職であると同時に、外貨を稼ぐ仕事でもあったのです。

 

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「いつ?」への答えは、三つの段階

冒頭の問いに戻ります。日本に編み物が来たのは、いつか。どの段階を指すのかで、答えが変わります。

伝来は、16世紀後半から17世紀前半の南蛮貿易の時代。手編みの靴下や手袋が、舶来品として届きました。普及は、江戸後期の文化・文政のころ。浪人や下級武士の内職として、手編みが広がりました。そして定着は、明治から大正にかけて。教科書や学校、宣教師、鹿鳴館の流行を通して、編み物は家庭の手芸へと姿を変えていきます。

その先もまだ続きがあります。大正13年(1924年)には編物講師の江藤春代が、現在の編み目記号のもとになる「合理的符号」を考案し(北川ケイ「江藤春代の編物普及活動」)、昭和30年(1955年)には編物の表示記号がJISで統一されました。同じ図があれば、誰でも同じものが編める。そんな共通の言葉が整うまでに、靴下が海を渡ってから三百年以上かかったことになります。

織る布ばかりだった国に、編む布がやってきた。一足の靴下から始まった長い旅を思うと、手の中の毛糸の一目が、少し違って見えてくるかもしれません。

参考にした資料
・ナイガイ「日本へのメリヤスの伝来」
・ナイガイ「所蔵品紹介 著名人の靴下」
・徳川ミュージアム「コレクション」
・日本大百科全書(ニッポニカ)「編物」
・メリヤスの起源・歴史について(slouch)
・編み物(ニッティング)の歴史(iroai)
・世界、日本のニットの歴史を深堀り(knitmag)
・靴下の歴史<日本編>(SOCKS FACTORY SOUKI)
・たた&たた夫の編み物入門「童女筌の世界」
・日本家政学会「女学校創設期の服飾資料の保管の現状」
・日本家政学会誌 Vol.63 No.5(2012)
・北川ケイ「明治期〜昭和期に活躍した江藤春代の編物普及活動と日本における編物の変遷」
・むかし日本はレースの輸出国だった。(owarimao)

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