かつて、裁縫は”女性のたしなみ”と言われていた話

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現代では「花嫁修行」や「女のたしなみ」という概念自体がジェンダーを縛り付ける考え方とされます。しかし、昔は違っていたんです。

針と糸が結ぶ物語 ―― 花嫁修行と、洋裁学校の時代

お母さんやおばあさんの世代から、「昔は裁縫ができないとお嫁に行けなかった」という話を聞いたことはありませんか。それはただの昔話ではなく、かつての日本女性が生きた時代の、リアルな風景でした。洋裁学校の前に並ぶ女性たち、ミシンの音が響く教室、そして「花嫁修行」という名のもとに受け継がれてきた手仕事の文化。針と糸をめぐる、ひとつの時代の物語をたどります。


「裁縫」は女性の証明だった ―― 江戸から明治へ

花嫁修行の原型は、遠く江戸時代にさかのぼります。当時の町人女性は、衣類をはじめ身の回りの布製品のほとんどを自分の手で縫っていました。裁縫は単なる家事技術ではなく、「女性のたしなみ」として社会的な意味を持ち、母から娘へ、姉から妹へと自然に受け継がれていきました。

裕福な農家や商家の娘たちは、武家に奉公することで「花嫁修行」の箔をつけました。奉公先で礼儀作法や家事全般を学び、その経験が縁談にも良い影響を与えると考えられていたのです。結婚前の女性がさまざまな技芸を磨く習慣は、明治時代にはさらに社会的な規範として定着していきます。明治のはじめ頃、女子に学問は不要とされながらも、裁縫や料理などの「花嫁修行的な習い事」は積極的に奨励されていました。

「昔は、着物の仕立てができて一人前、和裁も花嫁修行のひとつだったんだよ」


きものと(京都きもの市場)より

明治時代の女性にとって、裁縫の能力は結婚市場でのひとつの「価値」でした。17〜18歳で嫁入りするのが当たり前とされていた時代、手仕事の腕前は縁談の場での評価基準でもあったのです。


洋裁学校の誕生 ―― 大正から戦後のブームへ

日本に「洋裁」が家庭に根付きはじめたのは、大正後期のことです。第一次世界大戦後、欧米の生活様式への関心が高まり、女性の服装が和装から洋装へとゆっくりと変化していきました。それに伴い、「洋服を作れる女性」への需要が急速に高まっていきます。

大正8年(1919年)、並木伊三郎が東京に「並木婦人子ども服裁縫教授所」を開設。これが現在の文化服装学院の前身で、日本初の本格的な洋裁専門学校として歴史に名を刻みました。その後、大正15年には杉野芳子のドレスメーカー・スクールも創立。洋裁の教育機関が次々と誕生していきます。

NOTE

戦後の洋裁学校ブームのピーク時、公認の学校だけで全国に5000校以上にのぼったとされています。駅前や町中に洋裁学校の看板が並ぶ光景は、昭和という時代のひとつの象徴でした。

真のブームが訪れたのは、戦後のことです。戦争が終わり、衣食住すべてを立て直す必要があった当時、洋裁は実用的な技術として再び脚光を浴びます。既製服がまだほとんど普及していなかった時代、日常着や子ども服は家で手作りするのが当たり前でした。洋裁学校の入校目的のほとんどが「家庭に入って困らぬように」だったといいます。こうした背景から、洋裁学校は花嫁学校としての側面も持ちながら、爆発的に生徒数を増やしていきました。

「こういう社会ですから、女だって腕を持ってないと不安ですわ。腕さえあれば夫に死なれても困りませんもの」


国立国会図書館「洋裁の歴史」展示資料より(当時の洋裁学校入校生の言葉)

当時の女性たちにとって、洋裁の腕を持つことは単に「良い妻になるため」だけではありませんでした。夫を失っても、子どもを育てていけるという、自立への静かな意志がそこには宿っていたのです。

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「花嫁学校」という文化 ―― 昭和の女性と習い事

昭和の中頃になると、「花嫁修行」はより体系化された形をとるようになります。洋裁・和裁はもちろん、料理、華道、茶道、着付け、書道などをセットで学ぶことが良家の娘の「たしなみ」とされました。原宿にあった東郷学園は日本初の本格的な花嫁学校として知られ、入学には厳しいコネクションが必要だったとも伝わります。

当時はお見合い結婚が主流だった時代。縁談の場では「お免状(資格)」を持っているかどうかが、相手方へのアピール材料にもなっていました。短大を卒業した後、就職せずに花嫁学校へ通うという選択肢は、良家の子女にとってごく自然なルートだったのです。

一方、1985年に男女雇用機会均等法が施行されると、女性の社会進出が加速し、結婚観や家族のあり方が大きく変わっていきます。家事は女性だけの仕事ではなくなり、洋裁や料理を「嫁入りのため」に習う時代は、静かに幕を閉じていきました。

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世界の「花嫁修行」 ―― ヨーロッパとアメリカの裁縫文化

実は「裁縫は女性の嗜み」という考え方は、日本だけのものではありませんでした。ヨーロッパでは中世から17世紀にかけて、花嫁の持参品(トルソー)に裁縫道具が含まれるのが慣習でした。針、ピン、ピンクッションといったアイテムは、嫁入りの必需品として花嫁に贈られていたのです。

ヴィクトリア朝時代のイギリスでは、刺繍や裁縫の技術は「上品な女性の証明」とされていました。「プレーンワーク(実用縫い)」と「ファンシーワーク(装飾刺繍)」の両方を習得した女性は、家庭を美しく維持できる存在として高く評価されたのです。刺繍の技術は母から娘へと伝えられ、学校でも積極的に教えられました。特に女性向けの寄宿学校では、刺繍・縫い物のコストが授業料よりも高いケースもあったといいます。

「針仕事に熟達した若い女性は、現在の衣服を補修できるばかりでなく、流行に沿った新しい服を自分で設計して縫うこともできた」


Mimi Matthews「Victorian Sewing」より要約

ヨーロッパには日本の花嫁学校に対応する「フィニッシングスクール(Finishing School)」という概念があります。「Finishing(仕上げ)」とは、「これなら社交界に送り出しても恥ずかしくない」という意味を持ちます。主に上流階級の子女が社交界デビューに向けて礼儀作法、文化的教養、語学などを磨く場でした。アメリカでは19世紀後半、資産家の子女向けの「マナースクール」として発展し、第一次世界大戦後の好景気とともに大きな組織へと成長していきました。

COLUMN

日本の「花嫁学校」とヨーロッパの「フィニッシングスクール」は、同じ言葉で語られることがありますが、実は異なるニュアンスを持っています。日本の花嫁学校が茶道・華道・料理・裁縫などの実用的な「お稽古」に重点を置いていたのに対し、ヨーロッパのそれは主に貴族・良家の子女が社交界でデビューするためのマナーや教養を磨く場でした。文化の違いが、同じ「結婚前の修行」にも異なる色を与えていたのです。


洋裁文化の衰退と、手仕事の「再発見」

1970年代に入ると、既製服の普及と品質向上が急速に進み、日本でもヨーロッパでも「自分で服を縫う」必要性は薄れていきました。洋裁学校は次々とファッションデザイン系の専門学校へとシフトし、「花嫁修行としての裁縫」という文化は、長い歴史の幕を閉じていきます。

しかしいま、手仕事は新しい意味を持って戻ってきています。「義務」でもなく「嫁入りのため」でもなく、純粋な喜びや自己表現として、縫うことを選ぶ人たちが世界中に増えています。ヴィクトリア朝の刺繍研究者が記したように、「多くの女性が過去も現在も、それを楽しんでいたはずだ」という視点は、きっと真実を含んでいるでしょう。

布と向き合う時間は、いつの時代も女性たちに何かを与えてきました。生活の知恵であったり、自立の手段であったり、あるいは静かな創造の喜びであったり。その意味は変わっても、針と糸が人の手とつながる感触は、今もどこかで息づいています。


花嫁修行の時代に洋裁学校へ通った女性たちが触れた布地は、今も世界のどこかで誰かの手の中にあります。jumble shop oneが海外から集めるファブリックたちも、そうした長い布と手仕事の歴史の延長線上にあります。あなたが選ぶ一枚の布が、あなたの時代のひとつの物語になりますように。

jumble shop oneでは厳選した輸入ファブリックを取り揃えています。

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