布が語ることば ―― アフリカのテキスタイルをめぐる旅
アフリカの布には、ただ美しいだけでは終わらない何かがあります。東アフリカの海岸沿いでは布の縁に格言が刷られ、女性たちはそれを身にまとうことでメッセージを伝えます。西アフリカの村では、蜘蛛の織る糸から人が織り方を学んだという伝説が今も語り継がれています。マリの乾いた大地では、発酵させた泥そのものが染料になります。布を織り、染め、纏うという行為の奥に、それぞれの土地の歴史と声が折り重なっているのです。今日は、カンガ・キテンゲ・ケンテ・ボゴランという東西アフリカを代表する四つの布に加え、ナイジェリアの藍染め「アディレ」と、南部アフリカの「シュウェシュウェ」についても、海外の文献や記事から集めた情報を交えてご紹介します。
カンガ ―― 布に刷られたスワヒリの言葉(東アフリカ/ケニア・タンザニア)
カンガは、中央の柄「ムジ(mji)」、それを囲む縁飾り「ピンド(pindo)」、そして布の下辺に刷られたスワヒリ語の格言「ジナ(jina)」という三つの要素からなる、約150cm×110cmの綿布です。19世紀、ザンジバルで「メリカニ」と呼ばれたアメリカ産の未晒し木綿や、ポルトガル商人が持ち込んだ更紗の布「レンソ」が起源のひとつとされ、その名は斑模様を持つホロホロ鳥(カンガ)に由来すると言われています。1950年代になってようやくタンザニアやケニアで現地印刷が始まり、それ以前はインドや極東、ヨーロッパで製造されたものが流通していたそうです。
布の縁に格言を刷る習慣を広めたのは、1880年代からモンバサでカンガを商っていたハジ・エサック家の店だったと伝えられています。その創業者の一人、ハジェ・エサック・アブドゥルカディルディナが1930年代にこの手法を広めたことで、カンガは単なる衣料品から「読む布」へと変わっていきました。格言はことわざや謎かけ、時事的なメッセージなど多岐にわたり、贈る相手への警告や励まし、あるいは皮肉までもがそっと布に託されます。イリノイ大学のアーカイブには、こんな言葉が紹介されています。
“A woman can’t be happy until she has got a thousand kangas.”
「女性は千枚のカンガを手にするまで幸せになれない」– 東アフリカで語り継がれることわざです。
カンガは2枚一組で売られ、贈り物や弔意を表す際にも使われます。タンザニアでは、家族に不幸があった際、近隣の人々が少しずつお金を出し合う「ミチェンゴ」という慣習の中でカンガが贈られることもあるそうです。一枚の布が、経済的な助け合いの記憶まで運んでいるのです。
キテンゲ ―― インドネシアから海を渡った蝋纈染め(中央・東アフリカ)
カンガより厚手で大判、格言の印字を持たないのがキテンゲです。興味深いのは、そのルーツがアフリカではなくインドネシアのバティック(ろうけつ染め)にあるという点です。19世紀、オランダはインドネシアのバティック市場向けに工業的な蝋纈染め布を開発しようとしましたが、現地では受け入れられず、代わりにヨーロッパへ持ち帰った反物が西・中央アフリカの港で熱心な買い手を見つけたのだと言われています。ケニア、ウガンダ、タンザニア、スーダンなど東アフリカ各国でも広く親しまれるようになりました。
西アフリカで「アンカラ」と呼ばれる蝋纈染めのワックスプリントと、キテンゲは近い親戚のような関係にあります。両者の違いは製法にあり、アンカラは蝋で防染してから染める本来のバティック技法を用いるため、布の表と裏がほぼ同じ発色になるのに対し、キテンゲはより簡易なスクリーン印刷が主流で、裏面の色が表面より淡くなる傾向があるそうです。2023年にケニアのナイロビを訪れたある研究者は、市場の売り手たちが中国製とわかっていながら「本物のオランダ・ワックス」「本物のアフリカ布」として布を紹介していたと綴っており、キテンゲという布そのものが、複数の大陸を行き来しながら形づくられてきた歴史を物語っています。
ケンテ ―― 蜘蛛の糸から生まれた王家の織物(西アフリカ/ガーナ)
アカン族の伝承によれば、ボンウィレ村の二人の青年オタ・カラバンとクワク・アメヤウが、森の中で蜘蛛アナンセが巣を織る様子を見て、その技法を教わったのがケンテ織りの始まりだとされています。かつては王族や貴族のみが身にまとうことを許された格式高い布で、アシャンティ王国の宮廷では細幅の織機で織られた帯状の布を何本も縫い合わせて一枚の大きな布に仕立てていました。18世紀にはフランスやイタリアから輸入された絹糸が地元の綿や毛糸と組み合わされ、あの華やかな発色が生まれたと言われています。
ケンテの奥深さは、模様のひとつひとつに固有の名前と、それにまつわる格言が結びついている点にあります。織り手は夢の中や瞑想の中で模様の名を授かるとも言われ、模様は特定の王や王妃、歴史的な出来事にちなんで名づけられることもあります。ウェイクフォレスト大学の博物館が紹介する模様のひとつには、こんな言葉が添えられています。
“Don’t kill my house and then mourn for me in public.”
「私の家を壊しておいて、人前で私のために嘆かないでほしい」– ある柄に込められた戒めの言葉です。
— Timothy S. Y. Lam Museum of Anthropology “Ghana: Weave a Kente Cloth”
今日ではケンテは絹だけでなく綿やレーヨンでも織られるようになり、より多くの人の手に届く布になりました。それでも1960年代以降、汎アフリカ主義やアフリカ系の人々のアイデンティティを象徴する布として世界に広まり、色と模様に刻まれた歴史はいまも変わらず織り継がれています。
ボゴラン ―― 大地と川がつくる泥染めの布(西アフリカ/マリ)
「ボゴランフィニ」はバンバラ語で「泥で作った布」を意味し、マリ中部ベレドゥグ地方のバンバラの人々によって伝えられてきました。起源は12世紀までさかのぼるという説もありますが、布という有機素材の性質上、正確な年代の特定は難しいそうです。制作にはまず、タンニンを豊富に含むンガラマの木の葉で染めた黄色い下地布をつくり、そこにニジェール川やバニ川の川底から採取し数か月から一年以上発酵させた鉄分豊富な泥を、模様の「まわり」に塗っていきます。模様そのものを描くのではなく、模様の周囲を塗って地色を沈めることで白い形を浮かび上がらせる、いわば「余白で語る」染色法です。
制作工程には男女の明確な分業があり、男性が細い帯状の綿布を織り上げ、それを縫い合わせて一枚の布にしたあと、女性が染めと模様付けを担うのだそうです。鉄分を含む泥のタンニンとの化学反応によって色が定着するこの技法は、化学であると同時に、代々受け継がれてきた知恵そのものでもあります。ある記事はその重層性を、こんな言葉で言い表していました。
“…part chemistry, part code, part coded language.”
「化学であり、記号であり、暗号のような言語でもある」– ボゴランの制作工程をこう表現しています。
— Guzangs “Bògòlanfini: Mali’s Mud Cloth, Read as a Language”
もともとは狩人が身につける護符や、少女たちの成人儀礼のための布として使われてきたボゴランは、今では観光市場や西洋のファッションにも取り入れられるようになりました。マリの染色家ナクンテ・ジアラのように、生涯をこの技法に捧げ、作品が世界の美術館に収蔵された作り手もいます。土と川と太陽だけで完結する、産業に頼らない染色のありようは、サステナブルという言葉が生まれるずっと前から実践されてきたのです。
アディレ ―― ヨルバの女性たちが受け継ぐ藍の布(西アフリカ/ナイジェリア)
ナイジェリア南西部のヨルバ人女性たちが手がける藍染め布、それがアディレです。ヨルバ語で「結んで、染める」を意味するその名の通り、布を折る・縫う・結ぶといった方法で防染し、藍甕に浸けて染め上げます。最初期のものは、マリで今も作られているような素朴な絞り染めだったと考えられていますが、20世紀初頭、アベオクタなどヨルバの町にヨーロッパの織物商人がもたらした既製の綿布(シャツ地)が大量に手に入るようになったことで、女性たちの染色は一気に芸術性と経済活動としての厚みを増していきました。
なかでも代表的なのが「アディレ・エレコ」と呼ばれる技法で、キャッサバのでんぷん糊で布に模様を手描きしてから藍で染める方法です。良質なものは糊を落として染め直す工程が25回以上繰り返され、深い藍黒色に仕上がるといいます。染色は基本的に地面に半分埋め込まれた大きな陶製の甕の中で行われ、染めと祈りが分かちがたく結びついた、女性たちの共同作業として続けられてきました。ある記事は、アディレという布の本質をこう表現しています。
“Adire is more than cloth. It is a language of resistance.”
「アディレはただの布ではない。それはひとつの抵抗の言語なのだ」
— Garland Magazine “Adire: Yoruba indigo as archive, resistance, and future”
1970年代以降、アディレ・エレコのように手間のかかる手描き染めは徐々に少なくなり、現在では「カンパラ」と呼ばれる多色のワックス染め布に人気が移っているといいます。それでも、ナイジェリアの染色家ニケ・デイヴィス゠オクンダエのように、無償で若い女性たちにアディレの技術を教え続ける工房もあり、藍の色とともに技術と記憶が次の世代へ手渡されています。
シュウェシュウェ ―― 王の名を冠した南部アフリカの藍プリント(南部アフリカ/レソト・南アフリカ)
南部アフリカのバソト族やコサ族、ズールー族の伝統衣装に欠かせない布、シュウェシュウェ。その名は、1840年代にフランス人宣教師から藍染め布を贈られたバソト王モショエショエ1世に由来すると伝えられています。もとをたどれば、インドやジャワで生まれた藍染めの布がオランダ商人によって17世紀のヨーロッパへ運ばれ、そこで独自の技法として発展したものが、19世紀半ばに南アフリカへ入植したドイツ人によってケープ州東部のコサの人々にもたらされたのだそうです。コサの人々はこの布を「ウジャマニ(ドイツプリント)」と呼び、日常着や儀礼服に取り入れていきました。
伝統的な製法は「ディスチャージプリント」と呼ばれ、藍色に染めた布に弱い酸性の液を型押しし、色を部分的に抜くことで白い幾何学模様を浮かび上がらせます。1992年、南アフリカの繊維会社ダ・ガマ社がイギリスの企業から商標権を買い取り、東ケープ州で現地生産を開始したことで、シュウェシュウェは世界で唯一この会社だけが手がける、南アフリカ固有の布となりました。買ったばかりの布特有の張りのある手触りは、かつて長い船旅の間に布を保護するために使われた糊の名残なのだそうです。名前の由来には諸説あり、こんな説明もあります。
“…the swishing sound shweshwe skirts make when walking.”
「歩くときにシュウェシュウェのスカートが立てる、あのシュッシュッという衣擦れの音」――これが名前の由来だという説もあります。
— Shwezu “The rich and colourful history of Shweshwe”
今日ではシュウェシュウェは藍だけでなく、赤や茶、緑など多彩な色で織られ、キルターの間でもパッチワークに取り入れられるほど人気の布になっています。移民や宣教、交易といった複雑な歴史を経て土地の人々の手に渡り、独自の文化として根づいていった過程は、この記事で紹介した他の布とも重なる、アフリカのテキスタイルに共通する物語のように思えます。
むすびに — 布は、旅をしながら土地の声を宿す
今回ご紹介した六つの布を並べてみると、ひとつの共通点が見えてきます。それは、どの布も一つの土地だけで完結してはいないということです。インドの更紗、オランダのバティック、ドイツの入植、フランスの宣教 — 外から来た技術や素材が、現地の女性たちの手によって染め直され、織り直され、その土地ならではの言葉や物語をまとって初めて、今知られる姿になったのです。布は交易とともに海を渡り、渡った先の人々の暮らしに根を下ろし、やがてその土地自身の声を語り始める。そう考えると、一枚の布を手に取ることは、その旅の記憶に触れることなのかもしれません。
今回参照した記事はいずれも英語圏の博物館・研究機関・ジャーナルによるものです。より詳しく知りたい方は、本文中のリンク先もあわせてご覧ください。
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