2030年、日本の生地はどう変わる?経済産業省「繊維ビジョン」を読み解く
海外の素敵なファブリックを手に取るとき、その裏側にある「産業」のことまで考える機会はあまりないかもしれません。でも実は、日本の繊維産業は今、大きな転換点に立っています。2022年5月、経済産業省は約17年ぶりに「2030年に向けた繊維産業の展望(繊維ビジョン)」を策定しました。国内市場の縮小、輸入依存の高さ、職人の高齢化——こうした課題に、国はどう向き合おうとしているのでしょうか。今回は、繊維ビジョンの中身と、策定から数年を経た「その後の動き」までご紹介します。
繊維ビジョンとは何か
繊維ビジョンは、経済産業省の産業構造審議会・繊維産業小委員会が議論を重ねてまとめた、繊維・アパレル産業の方向性を示す指針です。前回の繊維ビジョンが発表されたのは2007年。実に15年ぶりの改訂となりました。
背景には、人口減少・高齢化、デジタル化の急速な進展、そして新型コロナウイルスによる消費行動の変化があります。衣料品市場は1990年代に縮小し、2000年代以降は横ばいが続く一方、衣料品の輸入依存度は98%を超えているとされています。国内の繊維工業の事業所数もこの15年で半分以下に減少するなど、産地の存続そのものが危ぶまれる状況です。
経済産業省は、繊維産業が新たなビジネスモデルの創造・海外展開・技術開発という3つの「戦略分野」と、サステナビリティとデジタル化という2つの「横断分野」を軸に、政策を進めていく方針を示しています。
— 経済産業省「繊維ビジョン」公表資料より
同時に「繊維技術ロードマップ」も策定され、技術開発の具体的なスケジュールが示されました。ここからは、繊維ビジョンが掲げる4つの重要な方向性を、順番にみていきましょう。
1. サステナビリティへの転換(SX)
繊維産業は水やエネルギーの使用量が多く、環境負荷の高い産業とされています。だからこそ、企業の「稼ぐ力」とESG(環境・社会・ガバナンス)を両立させるSX(サステナビリティ・トランスフォーメーション)が、業界にとって最大級のテーマになっています。
服から服への資源循環
回収した古着から新しい糸や生地を作る「繊維to繊維」のリサイクル技術は、この分野の目玉です。経済産業省は環境省と共同で2023年1月に検討会を立ち上げ、「回収」「分別・再生」「製造」「販売」の4つのフェーズごとに課題を整理しながら、資源循環システムの確立を目指しています。
サプライチェーン全体での人権配慮
欧州を中心に人権デューデリジェンスへの対応が急速に進む中、日本の繊維企業にも、労働環境や人権配慮を「見える化」する取り組みが求められるようになっています。この流れは、後述する「JASTI」という国内独自の監査基準につながっていきます。
2. デジタル化の徹底(DX)とスマート化
染めや縫製の現場は、長らく職人の勘と経験に支えられてきました。しかし複雑に分業化されたサプライチェーンをつなぐには、デジタル化が欠かせません。AIやデータを使って「必要なものを、必要な分だけ」作る仕組みづくりが進めば、売れ残りによる廃棄も減らせます。
スマートテキスタイルという新市場
生体データを取得できる導電性の繊維や、医療・介護に役立つ高機能繊維など、「布」の可能性そのものを広げる技術も、繊維技術ロードマップの重点分野として位置づけられています。ファッションとテクノロジーの境界が、少しずつあいまいになっていく分野です。
3. 新たな「稼ぐ力」の創出と海外展開
国内市場が縮小する一方で、海外の富裕層市場やEC市場は拡大が見込まれています。日本の繊維技術は海外からの評価が高く、その力を活かして自社ブランドで直接海外に販売する「ファクトリーブランド」の育成が、大きな柱のひとつです。
下請けから、自社ブランドへ
優れた生地産地や縫製工場が、海外ブランドのOEMにとどまらず、自らブランドを立ち上げて世界に直接発信していく——JETRO(日本貿易振興機構)や中小機構と連携した輸出支援も、この方向性を後押ししています。
4. 繊維産地の「好循環」と技術継承
尾州、播州、北陸、児島——日本の伝統的な繊維産地は、今まさに事業所の減少と後継者不足という危機に直面しています。繊維ビジョンでは、産地間・自治体間の連携によって、成功事例や職人育成のノウハウを共有し合うことが重要だと位置づけられています。
国はこれを受けて、産地を有する地方公共団体を集めた「繊維産地ネットワーク協議会」を設置。産地ごとに個別に戦うのではなく、事業承継への税制優遇や補助金も含めて、面での支援を強化しています。
策定から数年、実際に何が動いたのか
繊維ビジョンは「策定して終わり」の指針ではなく、その後も具体的な施策として動き続けています。ここでは、2023年以降の主な動きをご紹介します。
繊維産地サミット宣言(2023年1月)
産地を有する地方公共団体と国が連携する「繊維産地サミット」が開催され、海外向け輸出額の倍増や、地域に根ざした繊維文化を通じた「産地エシカル」な国内需要の掘り起こしなどを掲げた宣言がまとめられました。
次代を担う繊維産業企業100選
サステナビリティ、デジタル化、技術力、独自ブランド、海外展開という5つの視点で優れた取り組みをしている企業を公募し、166社の応募から109社が選定されました。事例集は現在も経済産業省のホームページで公開されています。
特定技能制度とJASTI(2024〜2025年)
人手不足への対応として、2024年に繊維業が「特定技能」制度の対象分野に加わりました。これを受けて経済産業省は2025年3月、国際的な人権基準に沿った監査要求事項・評価基準「JASTI(Japanese Audit Standard for Textile Industry)」を策定し、同年4月から運用を開始しています。強制労働や児童労働の禁止、労働安全衛生の確保など、サプライチェーン全体で守るべき最低基準を定めたもので、日本繊維産業連盟が統括事務局を担っています。
JASTIには国際的な人権基準であるILO中核的労働基準が組み込まれており、初回監査と2回目以降の監査で異なる判定基準を設けることで、事業者が段階的に改善していける仕組みになっています。
まとめ:縮小産業から、先進産業へ
繊維ビジョンが目指すのは、日本のものづくりの現場を「ただ縮小していく産業」にせず、サステナブルで高付加価値な「先進産業」へと更新していくことです。資源循環、デジタル化、海外展開、産地連携、そして人権への配慮——どれもすぐに答えの出るテーマではありませんが、私たちが日々手にするファブリックの背景には、こうした大きな流れが確かに存在しています。次に生地を選ぶとき、その一枚が生まれてきた産地や工程にも、少し思いを寄せてみてはいかがでしょうか。
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